きっと本人が困り感をおぼえた時、それは「性格」ではなくなる。
これからどうしよう。
数日それぞれじっくり考えた上で、夫氏と話し合った。
以下、夫氏の言ったこと。
・軽傷だったのは運がものすごく良かっただけで、少し何かが違えば人の命を奪っていた。
・元々自分は不注意が強いと思ってはいた。
・1人で生きていく分には「自分は」困らなかったから、あまり気にして来なかった。
・私と結婚して、娘ちゃんが生まれて、2人を守る父としては、このままじゃ駄目だと思う。
・なんでもする、変わりたい。
・どうすれば良いか、一緒に考えて欲しい。
ずっと不思議だった。
私から見ると結構生き辛いだろうなと思える程度の不注意を持っている夫氏、本人は困り感がなかったから。
(どうして困り感がなかったのかは、またゆっくり考えてみようかなあ…)
『障害』ってなんだろう。
色んな考え方があるけど、一般的にイメージする『障害』は、「その人の心身機能の何かが欠けているかどうか」で判断する生理的な物差し。
例えば、足が動かない、目が見えない、とか。
でも、欠けた機能を補って生きていくことだって出来る。
そこで2つ目の「その人が生きていく上で困っているかどうか」で『障害』を判断する社会的な物差しがあると思う。
私は眼鏡やコンタクトを使って生活してるんだけど、もし平安時代なんかに生きていて、視力矯正具がない世の中なら。
私の近視は、きっと『障害』になるだろう。
要するに、判断基準は困り感の有無なのかなって。
ここで忘れそうになるけど、多分忘れちゃダメなのが、「誰の」困り感かってこと。
それはきっと、本人じゃないといけない。
例えば(小さ~〜い例えだけど)、夫氏と暮らす中で幾多のお皿が天に召され、数多の鍵・大捜査線で踊ってきた。
私は、お気に入りのお皿が割れてしょんぼりしたし、鍵を探す労力にため息だってついた。
でも、夫氏はそんなに気にしてなかった。
だからこれは、「夫氏の」困り感ではなかったんだ。
色んな考えがあると思う、色んな考えがあって当然だと分かった上で。
こういう白黒微妙なラインの場合、本人以外の困り感で診断名をつけるのは何か違うな、と私は思う。
ううん、意思表出が難しい度合いの『障害』でも、理想を言えばそうなんだろう。
だって、すごく雑に言うと、その人の人生じゃん。
出来る出来ないを学校のテストよろしく他人がジャッジするの、すご〜〜くデリケートだと思うの。
勿論、WISC・WAISみたいな知能検査で点数は出るけど、それは判断する材料のひとつであって、それ以上じゃない気がしてる。
話が少し逸れたけど。
今回の交通事故で、夫氏の不注意は「夫氏にとっての困り感」になった。
だから、受診を考えるなら今なんだろうな、と思う。